説教メモ
2022年10月16日
年間第29主日 ルカ18:1~8
ルカ18章には、祈りに関する二つのたとえ話が記されていますが、今週はその一つであるやもめと裁判官のたとえです。このたとえ話の目的があらかじめ「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため」ということが記されているのは、珍しいことです。これはルカ福音書の特長の一つで、イエス様の教えはすべての人々に開かれていることを強調するのに対して、マタイ福音書ではむしろたとえの真の意味は隠されており、「聞いても悟らない」かたくなな人々には「天の国の秘密を悟ることができない」ことが強調されています。(マタイ13:10~17)
さて、たとえ話の中に登場する二人の人物は、対照的です。一人は裁判官として大きな権力を持っている人物です。しかも、「神を畏れず、人を人とも思わない」という極端なほどの自己本位な性格であるとも記されています。彼は自分のやりたい事をやり、やりたくないことはやらないという徹底的なマイペースであることが強調されています。一方、もう一人の人物はやもめという弱く
何の力も持たない立場の人です。このやもめの持つ唯一の武器は「あきらめない」という熱意と態度だけなのです。
このやもめはきっと自分と子供たちが生きて行くために必要なものが奪われようとしているのかもしれません。「相手を裁いて、わたしを守ってください」と記されていますが、相手は不正な手段、あるいは詐欺を働いて、彼女の生活をおびやかそうとしているのでしょう。「やもめ」はイスラエルにおいては、イスラエルの共同体が保護する義務をもっていました。この裁判官がやもめの訴えを無視することはやがて、その村、その町のイスラエルの人々を無視することにつながるのです。「ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」と気がついたのです。その裁きの結果がどうなったかについては、このたとえ話は触れていませんが、今日の日本の社会でも裁判において長い時間がかかることが問題になっていることを考える時、人間の社会というものは洋の東西、時代にかかわりなく、このようなことは面倒なことであることは間違いありません。私たちは待つことは苦手であり、反対に人を待たせることには頓着しないというところがあります。自分の痛みには敏感ですが、人に痛みを与えていることにはなかなか気がつかないということがあります。
さて、このやもめのようにあきらめずに、ヤケにならずに私たちが行ない続けなければならないことは何でしょうか?
[祈り・わかちあいのヒント]
*イエス様のことばは考えさせられます「人の子が来る時、果たして地上には信仰を見出すだろうか?」と。