「神にできないことは何一つない」。マリアはそれだけを信じて、「わたしは主のはしため。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えました。それは凄まじい信仰の決断です。そしてマリアは、直ちに、エリサベトに会いに行きます。マリアが住んでいるガリラヤのナザレからユダのエルサレムまでは、急いでも数日はかかります。それでもマリアは出かけたのです。

 神はとんでもないことを彼女に求めてこられました。しかし彼女はそれを受け入れました。「お言葉どおり、この身に成りますように」と答えたのです。

大きな信仰的決意を彼女はしたのです。それは神の助けと導きによってできたことですが、彼女がその決意をするための一つの支えとなった事がありました。それはエリザベトの存在でした。そのエリサベトと直接会って、神の力あるみ業を確認したいと思ったのは当然のことでしょう。そのような思いで、マリアはエリサベトのもとに急いで出かけのです。

同じ体験をしているエリサベトの所へマリアが行くのは当然のことでした。神が示して下さる具体的な恵みの印を「急いで見に行く」ことの大切さをここから学びます。神の恵みの印を示されたなら、急いで行ってそれを見る事が信仰には大切です。そこには、私たちの思いを超えた恵みが示されていきます。

 マリアがザカリアの家に入り、エリサベトに挨拶をした時、エリサベトの胎内の子がおどりました。そしてエリサベトは聖霊に満たされて語り始めています。彼女が先ず語った言葉は、「あなたは女の中で祝福された方です」という言葉でした。なぜマリアが祝福された者なのか…、それはマリアが祝福された子を宿しているからです。

エリサベトはマリアの挨拶を聞いた時、この人も自分と同じように、聖霊の大きな力によって神に選ばれた人なのだ、ということを知らされました。そして、自分の胎内にいる子と、マリアの胎内にいる子がどのような関係にあるのかをも聖霊によって示されたのです。マリアの胎内の子は、「わが主」である事を彼女は知っているのです。エリザベトが生む子は、「主に先立って行き、準備のできた民を主のために用意する」という天使のお告げに基づくことです。ヨハネは「わが主」に先立って歩み、その到来の準備をする者となる、その後に来られる救い主が、マリアの胎内に宿っているのです。マリアの挨拶を聞いた時、胎内のヨハネがおどりました。それは、ヨハネ自身が、この人の胎内に宿っている子こそ、自分が道備えをする救い主だと彼女に告げたということです。ここに、神に選ばれ、その偉大な力によって子を宿している二人の女性の出会いがあいます。そしてそこに、この二人の胎内にいる二人の子どもたち、洗礼者ヨハネと救い主イエスとの関係も示されているのです。

エルサレム神殿の祭司の妻であるエリザベトがに対して、「あなたは女の中で祝福された方」と賛美し、「わが主のお母さま」と呼んで敬意を払っているのは、ヨハネとイエスの関係によることです。

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」という言うマリアの言葉の意味は深いものです。どれ程、人間の常識や理解を超えたものであっても、神の力によって必ず現実する神の救いの計画。その救いの神秘に彼女たちは用いられ、伝える者とされています。マリアが祝福された者、幸いな者であるのはこの信仰によってです。エリサベトはこのマリアの信仰を称えているのです。  「主がおっしゃったことは必ず実現する」というのは、マリアの信仰であると共にエリサベトの信仰でもあります。人間の思いを超える神の力によって子を宿した彼女らは、共に、主がおっしゃったことが実現することを自分の体で体験させられているのです。その信仰によって、彼女たちは「幸いな者」となっているのです。

マリアは、取るに足りない小さな者である自分に神が目を留め、救いのみ業のために用いて下さることを喜び、自分が幸いな者であることを感謝して、神を賛美していますが、彼女が歌っているのはその自分の幸いだけではありません。自分に与えられた幸いが、これからも、神を信じて生きる多くの人々に与えられていくことを語っているのです。マリアだけでなく、神を信じて生きる全ての者が「幸いな者」であるということです。

その喜びに最初にあずかった人として、私たちはマリアのことを思い起こします。私たちも、マリアと共に幸いな者です。私たち一人ひとりも、「救い主である神を喜び称える者となる喜びに招かれているのです。

 マリアと共に、私たちも「幸いな者」となるよう招かれているとはどういう事でしょうか。

  「幸いな者として生きる」とは、神の憐れみによって生かされる者となる事です。

神が、私たちを憐れみによって生かし、導いて下さるのは、アブラハムとその子孫に与えて下さった約束に基づくものです。神の憐れみは、単なる同情ではありません。神は、この約束を果たすためにイエス・キリストをこの世に遣わして下さいました。マリアはその約束の実現のために選ばれました。そこに彼女の幸いがあります。私たちも、イエスのみ心によって生かされ、そのために用いられていくところ私たちの幸いがあります。