説教メモ 

                      2025年3月9日

四旬節第一主日 ルカ4:1~13

灰の水曜日から四旬節が始まりました。灰は地のちりの象徴であり、私たち人間の存在のはかなさ、もろさ、みにくさ、死に向かって行く私たちの象徴でもあります。このちりに神の息吹きが注がれ、神の似姿として人間が誕生したのです。イエスさまは私たちを真の神の子として新たに誕生させるために洗礼を定め、また十字架を担うように教え、ご自身の復活に参与するように招いておられるのです。

 

さて、四旬節の第一主日では、毎年、荒野での試練が朗読されます。イエス様は公の宣教の生活を開始する直前の四十日間を荒野で過します。荒野はイスラエルの民にとって「試練の場」であるとともに「神様との親密な交わりの場」でもありました。私たちも四旬節を過すにあたって、この四旬節が暗い面持ち、雰囲気であってはならないと思います。つつましく、しかし、心に新たな輝きを保ちつつ、過して行きたいと思います。

 

イエスさまが悪魔から受けた誘惑は三つに象徴されています。第一の誘惑の意味は「自分の持っている力を自分自身の利益のために使え」ということです。

これは一見すると悪いことでもなんでもないように思えますが、実はイエスさまの十字架上での出来事に関連しているのです。「お前が本当に神の子ならば、十字架からおりて自分を救ってみろ、そうすればお前を信じてやる」というののしりのことばこそ、このパンの誘惑と同じ根源を持つ誘惑なのです。イエスさまの生き方とその教えは、人間の自己中心的な傾向と正反対に父なる神と人間に向かって全力投球なのです。自分のため、自分の利益、自分の都合を中心にするやり方は実は神様をも利用しようとする根源的な罪の生き方を象徴する

ものなのです。第二の誘惑もこれと似ています。神様をないがしろにしてこの世の成功、繁栄、利益を得たとしても虚しいことなのです。何故ならば、たかだか70年~100年を生きたところで、永遠の時の中では一瞬に過ぎないことなのです。私たちがこの世の財産や繁栄にこだわっているとすれば、死後の後にはそれらのものが何の価値の無いことを忘れているからなのです。人はちりから生まれ、ちりにもどるしかない存在なのです。この人生をどう生きるか、本当に虚しくないものを探し求めて生きるべきなのです。第三の誘惑は神を試すことです。これも私たち人間の一つの罪の傾向です。自分が納得がゆかなければ信じようとしない。神様は私たちが信じることの出きるようにたくさんのことをすでに証ししてくれているのに気がつかないでおりながら、自分の満足や納得、つまり自分にとって都合がよいことを求めているのです。

 

  [祈り・わかちあいのヒント]

*あなたがたびたび負けてしまう「誘惑」はどんなことですか?